文: 籔谷智恵 写真: 甲田和久
知床国立公園内にある知床自然センター。雄大な森のなかをよく見ると樹皮の一部がツルツル(!)の木があちこちに。「エゾ鹿が食べた跡」だと知床財団の岡本さんが教えてくれました。「樹皮を全周食べられた木は枯死してしまいます。オヒョウ、ミズナラ、キハダなどエゾ鹿が好む広葉樹が減少していて、森林生態系への影響が考えられます。北海道では官民が協力してエゾ鹿の数を一定に抑える個体数管理に努めており※、今はいっとき見られなかったエゾスカシユリが咲くなど植生の回復も一部見られるようになりました。ちょっとした野原でも生態系は変遷しているんですよ」。
※「北海道エゾシカ対策推進条例」、「北海道エゾシカ管理計画」など
平成10年〜17年、知床国道沿線でエゾ鹿と車の接触事故が多発。「車に轢かれた鹿に心を痛めてエゾ鹿の捕獲と食肉加工を始めた」と話すのは「知床エゾシカファーム」の代表、富田勝將さんです。実は知床エゾシカファームの母体は地域の建設会社。国道の維持管理を担うなかで、真夜中に何度も事故処理に呼び出されていたそうです。「当時は車が通れないくらい道路がエゾ鹿だらけでした。これはなんとかしないといけないなあと」
「小さい頃は鹿を見ることはほぼありませんでした」と富田さん。「鹿は妊娠率が9割以上の繁殖力の高い動物※。大雪が積もると歩けずに息絶えるのですが、温暖化で雪が減ってそうしたことも減って。道路沿いの芝が好きで、畑の作物や、一般家庭の庭木まで食べてしまいます。あとはやはり森林の被害が大きい。木が枯れることは鳥や小動物にも影響しますし、実生も食べ尽くすので山が更新しずらくもなってしまうんです」
※「北海道エゾシカ管理計画」(第4期)
数が増えすぎて様々な被害をもたらしているエゾ鹿ですが、明治期には乱獲により絶滅の危機に瀕したこともありました。現在はハンターの高齢化等から目標とする個体数管理が難しい現実も。急速に変化する人の社会と自然の共生とは常に向き合い続ける課題なのだと考えさせられます。 「ただ、駆除するだけではゴミになってしまうんです。『知床エゾシカファーム』がサイクルに入ることで、鹿を山の恵みとして食べられる。それはとても大切なことだと思います」
知床エゾシカファームでは山に食べ物が無くなる冬の間に、囲いわなをつかって自社でエゾ鹿を狩猟しています。夏に森をモニタリング、鹿の通りの多い場所に大型わなを設置。わなにはカメラがついており、エゾ鹿が入るとセンサーが感知、囲いを落とすことで一度に多くの頭数を捕獲します。夏は有害駆除対象としてハンターによる狩猟が行われます。いずれも完全なる自然の環境で育った鹿たちは、知床エゾシカファームの養鹿場に運ばれます。
食肉加工の鮮度管理には計画的な解体が必要なため、知床エゾシカファームでは養鹿場で一定期間鹿を育成しています。餌は牧草と、甜菜糖を作るビートの搾りかすです。育成による健康状態の変化はほぼなく、野生で育った肉質は変わらないのだそう。繁殖してしまわないよう1年以上は飼育しないようにしており、養鹿場はあくまでも期間限定の待機場。山の恵みを安全においしくいただくための工夫から生まれた仕組みです。
ジビエの臭み要因の多くは「血」に起因するため、屠畜後は迅速に血抜きを行います。その後は全ての内臓の病変の有無をチェックし、一部でも病気が見つかった場合は個体そのものを加工から除外します。ロース、モモなど部位ごとに捌いていくのは職人による手仕事です。その手さばきは見事で、こちらもスピーディ。最後は部位ごとにパックし、解凍時にドリップのでない「アルコールブレイン凍結」で冷凍。全品金属検査を経て出荷されます。
部位ごとに解体「とにかく安全性を第一に追求しています。そうすると結果的においしさもついてくるのかなと」と富田さん。作業場の温度は常に20℃以下に、作業時間も冷蔵庫での保管時間も短く。衛生管理をしている知床ファームでは北海道HACCP認証を取得しており、2023年には網走地方食品衛生協会の優良事業所表彰を受けました。細心の注意のもと手間暇をかけて加工されるエゾ鹿ですが、食肉になるのは身体全体のわずか2〜3割ほど。鹿肉はほんとうに貴重な山の恵みなのです。